国道から3.5km、車で約15分の山間部に位置する香美市物部町頓定(とんじょう)。
標高383mの山あいに、毎年見ごとに咲き誇る桜があります。
樹種は八重旭(ヤエアサヒ)。
一般的なソメイヨシノとはかなり趣きが異なる桜です。
桜と言えば「ソメイヨシノ」と思われがちですが、実は自生種が100種類以上、人が手を加えた園芸種が200種類以上あり、中には分類によって600種類以上と書かれている本もありました。
日本には「国花」が無いのですが、「国家を象徴する」「国民に愛好される」という花が桜と菊になってます。
桜自体は日本固有のもののようなイメージがありますが、外国にも広く分布していて特にアジア地域には多くの種類があります。
日本人は昔から桜が好きだったようです。
日本史に桜が登場するのは奈良時代の日本最古の歴史書古事記や万葉集。
その後も、嵯峨天皇が天皇主催の花見の宴を毎年行ったとか、貴族の間でブームになって館の庭に桜を植えたとか、鎌倉時代の「徒然草」には武士や一般の人にも花見が広がっていった様子が描かれています。
花見の宴は時代とともに、規模や内容が派手になっていきました。
豊臣秀吉が主宰した吉野の花見会では、5日間で約5000人が楽しみ、徳川家康や前田利家、伊達政宗といった歴戦の武将たちは、コスプレして参加したそうです。(^^;
江戸時代には庶民にも花見を楽しむ風習が根付き、江戸末期には大島桜と江戸彼岸桜を交配してできた「ソメイヨシノ」が誕生。
この品種ができた場所が江戸の染井村(現:東京都豊島区駒込)だったので、この名前が付きました。
明治以降にソメイヨシノは日本全国各地に広まり、その咲き誇る姿や花吹雪の美しさから、サクラの中で最も多く植えられた品種になったと言えます。
ただ、ソメイヨシノは寿命が60年ぐらいで、戦後に植樹された桜は寿命が近づいてきているものが多くなっていることが残念です。
香美市の山あいに位置する物部町は、古い歴史に包まれたところ。
今回ご紹介する頓定も、歴史に登場するのは今から550年前の文明2年(1470)。
文献では、平家の家臣が讃岐屋島の戦に敗れ、阿波の国より土佐韮生郷に落ち延び、その子孫が天正16年(1588)に頓定に移住したことや、長宗我部地検帳には戸数や石高も記載されており、古くから人々の暮らしが根付いていたことが伺えます。
ただ、この地は急傾斜地で平坦地に乏しく、水田はもとより畑等も少なく、暮らしは厳しいものがありました。
全盛期の記録は明治12年(1879)戸数72戸、人口341名。
その後、明治後期から、大正、昭和中期頃までは戸数56戸を維持していましたが、次第に中学卒業後、京阪神等に集団就職して老人と子供が残されるようになり、過疎化の波を受け学校は無くなり、一部地域は移住を余儀くされたところもありました。
頓定の地にある二本のしだれ桜。
その樹齢は定かではありませんが、この頓定の地で長年人々の心を癒やしてきたと思います。
花びらが開き、満開に近づくにつれ、重量感のある落ち着いた色合いの桜になります。
緑の山、青い空、そして濃いピンク色の花ふぶき。
まるで梅沢富美男が舞台のクライマックスで、花吹雪の中を踊っているように感じられました。
(個人的な感想です(^^;)
だんだんと日中の気温も上昇し、春が近づく今日このごろ。
美しい山桜を是非ご覧いただければと思います。
この桜の見頃はソメイヨシノより少し遅くなります。
開花情報は香美市観光協会が随時公開していますので、参考にしてください。
<参考資料>
古里の歩み−頓定の今昔− 著者:公文治利
物部村史 発行:物部村
NPOいなかみ