香美市地域をご案内していると、「神母ノ木」の読み方を聞かれることがあります。
ここは「いげのき」と読みます。
この地名が歴史に登場してくるのは江戸時代の文化年間(1804年頃)。
地名の由来は諸説あり、神秘的な雰囲気があるからか、由来について新聞で論戦が繰り広げられたこともありました。
この地には「神母(いげ)神社」という神社があります。
「神母」と呼ばれる神様は、稲の神、稲を作る田んぼの水の神。
その名の由来は、「イ=稲、ゲ=毛で稲の意味」や「池(イケ)⇒イゲ=井」から来ているという説が有力なようです。
高知県内には「おいげさん」と呼ばれる社や祠は400以上あるそうですが、「神母」は高知特有の単語らしく、日本民俗学の大家である柳田國男も注目したという記録がありました。
そして、御神木はその神社の境内にある楠の大木。
高さ15.5m、枝張り19.5m、根回り5.7m、樹齢500年以上と推定されています。
1本の木なのに、まるで森のような迫力があり、香美市指定の天然記念物に指定されています。
地名が歴史に登場してくるのは今から200年ぐらい前の話。
なので、それよりはるか昔より農耕の神として祀られ、地名にまで関わってきたのではないか、と思わざるを得ません。
今は静かな田舎町ですが、ここにはすごい歴史があります。
神母ノ木が歴史の舞台に登場する、さらに100年以上昔の話。
藩政時代初期の1660年代、神母ノ木の前を流れる物部川に堰を作り、その水を城下まで引く土佐藩家老野中兼山率いる大事業がありました。
その堰の名を「山田堰」と言います。
この事業で出来た用水路が、父養寺井川(ぶようじゆがわ)、上井川(うわゆがわ)、中井川(なかゆがわ)、舟入川(ふないれがわ)の4本。
この水のおかげで、新たに1713haの水田が開かれ、物流も大きく変わりました。
寛政年間(1789年頃)には、舟入川から現在の高知市内への通行が可能となります。
底の浅い平蛇船(川船)には、20石(約3トン)の年貢米を乗せることができました。
年貢米以外にも、和紙、茶、炭などを神母ノ木に集めて船団を組み、高知へ送ります。
帰路には、みそ、しょうゆ、酒、塩、ろうそく、魚・干物、くし・べになどの生活物資を持ち帰ります。
それらの物資は物部川上流部のみならず、本山や豊永までも運ばれていきました。
神母ノ木から物部川上流方面は現在の国道195号線が明治32年に開通するまでは、峠越えの細道で、大きな物資の運搬は物部川の水運に頼っていました。
材木は「筏流し」が行われていました。
長さ8尺(2.4m)〜2間(3.6m)までの松や桧など34本を筏に組み、鳶口を長い竹の先に付けた道具で舵を取ります。
記録では、香北町(根津)から神母ノ木まで約半日かかり、神母ノ木で一泊。翌朝、高知(かずら島)まで約半日かかって流した、とあります。
ダム建設で川が堰き止められるまで、筏流しは残っていたそうです。
物部川の上流へは曳綱で遡行(そこう)させていたので水運関連産業には多くの人手を要し、神母ノ木の荷揚げ場もあって、賑わいました。
藩政時代末期に香北町太郎丸の郷土史家竹内重意が残した「神母ノ木渡場の図」には材木売さばき所、古道具屋、船乗場、茶店、飲み屋などが描かれています。
そう、神母ノ木はまさに物流の拠点。そうなると様々な産業が集まってきます。
まずは、土佐打刃物の一大拠点。
土佐打刃物は農林業用刃物から発展したもので、特にこの神母ノ木周辺の片地エリアの鋸の生産量は県下一。
全国各地の資料館にある鋸の多くに片地印が刻印されています。
山田堰を作り、補修するには大量の木材が必要だったので、特に鋸の技術と生産設備が発展したのかもしれません。
品物が郵便で全国に送れる時代になってからは、神母ノ木郵便局には窓口が開く前から、土佐打刃物を発送する長蛇の列が出来ていたという話も残っています。
さらに、神母ノ木の近くの船谷は製瓦業が盛んで、藩政時代後期から城下や京都藩邸などに送られています。
明治時代には製瓦業が32軒あったそうです。
植林のための、ヒノキやスギの種苗の生産も県下一。
現在、高知県森林総合センターがこのエリアにあるのは、この時代の名残りかもしれません。
物資だけでなく、人々の往来も神母ノ木が拠点になりました。
物部町を越えて徳島・香川へ向かう人たちも、物部川上流部の人たちも、神母ノ木周辺を通ることになります。
日本が誇る往年の名俳優「笠 智衆」は戦時中、奥様の実家があった香北町へ疎開し、そこから京都の撮影所へ通うために神母ノ木を通っていたという話も残っています。
物部川左岸の方は、神母ノ木からは渡舟で物部川を渡り、各地へ行くことになります。
明治時代からは馬車もあって、渡舟を降りると馬車で土佐山田から高知市内方面へ行くことができたそうです。
物部川を渡る香我美橋が出来たのは明治44年(1911)5月。
同時期には後免から高知方面に土佐電気鉄道が開通し、だんだん便利になっていきました。
その中で、明治時代に神母ノ木は隆盛を極めます。
大小いくつかの料亭や旅館があり、有名な料亭には「松月」「円月」「宮地」「夜明」、戦後には「河畔」があったそうです。
中でも「松月」は大きく、敷地約600㎡、仲居13人、芸者5人、板前3人、屋形船3隻を持ち、収容人員約100人、高知市以東では、屈指の料亭であったとの記録も残っています。
この料亭の場所は現在、薬屋や古民家カフェ「茶房古古(ここ)」の駐車場になっており、周辺の建物の建築様式には当時の面影を垣間見ることができます。
三益座(さんえきざ)という映画館(芝居小屋)もありました。
昭和の時代には、美空ひばり、松方弘樹、目黒祐樹などの若き日の大スター達も舞台に上がったようです。
栄枯盛衰を経て、今は自然豊かで静かな町になった神母ノ木。
その全容を静かに見守ってきた大楠は、今、何を思いながら佇んでいるのでしょうか。
神母ノ木には、クイズ番組「クイズダービー」の解答者としても人気を集めた漫画家「はらたいら」の実家があります。
彼の著書「最後のガキ大将」は神母ノ木を舞台に子ども時代を描いたもので、TBS系で「ガキ大将がやってきた」というドラマにもなりました。
渡舟は、長年この地と共に歴史を紡いできた山﨑酒店のあたりにありました。
香我美橋のたもとから階段を降りたところには見渡し地蔵が渡舟の安全を見守っていましたが、今は神母神社の西側石垣にその座を移しています。
渡舟の管理を許可した鑑札は居酒屋「とさのひるね」の入り口に掲げられています。
このエリアには日本さくら名所100選に選ばれた「高知県立鏡野公園」があります。
春の一時、桜見物がてらに往年の神母ノ木を想いつつ、散策されてみてはいかがでしょうか。
<写真引用>
土佐山田町合併40周年記念写真集「ふる里の日時計」 発行:土佐山田町
<情報提供>
山﨑酒店 山﨑真幹様 公子様
山と森の店 遊山 入野高彰様
<参考資料>
広報かみ 平成24年4月号 発行:香美市
土佐山田の文化財 発行:土佐山田町教育委員会
All about 神母ノ木マップ 発行:風のふくまち
土佐山田史談 第24号 発行:土佐山田史談会
土佐山田地名考 著者:北村友幸
香美のくらし 発行:香美市教育委員会
NPOいなかみ