美市物部町笹字堂ノ下の大木が生い茂った林の中に、見事な銅板葺きのお堂があります。これが有名な笹の普賢さまで、普賢菩薩をお祀りしてあります。石段を上って堂の前から美しい建物を見上げると、この山奥によくもまあこんな壮麗なお堂が建てられたものだとつくづく感心させられます。
お堂の右側には大きな通夜殿があり、堂の前には鐘楼の礎石(鐘は戦時中に軍へ供出)、堂の裏手には「徳庵大和尚塔寛永8年(1631年)・・・」と刻んだ大きな卵塔が建っています。
高板山の北東にあり、安徳天皇陵墓の鬼門を守っていると言われている普賢さま。
本堂の中央に鎮座されている普賢菩薩さま。この普賢さまを祀るところは県下では少なく珍しいとのこと。普賢さまは辰年、巳年の人の守り本尊です。
そして、普賢さまの右には毘沙門天、左には不動明王の像があり、不動明王は酉年の人の守り本尊になります。
お堂の来歴は明らかではありませんが、伝えられているところによると、昔は七堂伽藍の立ち並んだ大きなお寺であったそうです。
戦国時代、長宗我部元親が土佐の国を統一すると「この山奥にこんな大きなお寺があっては戦略上おもしろくない」と言ってお寺を焼き払い、その時、徳庵大和尚がひそかに本尊の普賢菩薩を背負って逃げました。
和尚は後に再びこの地に帰り、元のお寺のあとにお堂を建てたのが普賢堂の起こりだと言われています。徳庵大和尚は帰る途中、道端に普賢さまを下ろして休み、「久しかぶりにもどってきた」といって喜んだので、そこの地名は今でもカブリというようになったとも伝わっています。
現在のお堂の近くには数軒の人家しかありませんが、昔は宿屋や商店もあってたいそう賑わっていました。昔は長岡郡の豊永や阿波の国へ越える街道で人や馬の通行の多い大通りであり、交通上極めて大切なところとして江戸時代には番所も置かれ、通行人を調べていました。
特に賑わうのが、旧暦6月23日の普賢さまのお祭り。近郷はもちろん、土佐山田や豊永・阿波からも参詣人があり、お堂の両側には市が立ち、菓子や小間物を馬で運び店が開かれます。境内は林の中までも人がいっぱいで朝まで踊り明かしたようです。
当時の若い人々は昼頃から谷川でからだを洗い、美しく着飾って踊る、そう、この祭りは男女の出会いの場でもあったのです。
また、集落の人々は御馳走をつくって参詣に来た親戚や知人をもてなし、家によっては客人を招き入れ、一夜のうちに一斗の酒樽をあけたような話もありました。
この伝統は今でも受け継がれ、昔ほどの賑わいはないにしても、この日ばかりは地域から外に出ている人たちも里帰りし、昔取った杵柄とばかり輪に飛び込んで踊る姿はほんとに楽しそうです。
数戸数人が気持ちを一つにし、すばらしい文化を守り続けている。ここには心のこもったお接待があり、人と人の心のふれあいがある。消してはならない香美市の大きな宝物です。
今年の旧暦6月23日は、8月4日。今年普賢堂夏祭りにお越しいただいた方には、地域の木で作った特製アクセサリーのお接待も用意されているそうです。(先着約80名様)
参考文献:村のあれこれ 松本実/広報かみ まちの声 奥ものべを楽しむ会
NPOいなかみ