物部村の玄関口大栃橋から4kmぐらい入った所に、仙頭という小さな集落がある。
山の中の里としては、わりあい空が広く、段々の田んぼも多く、環境もよいが、昔は道路もなく、細い道があるだけの、落人のかくれ住む土地にはふさわしい所であった。
その中腹にあるのが光明寺である。
寺領は景国という者が専当職として治めていたという。
平安時代の終わり、寿永年間に壇ノ浦の戦いに敗れた、平重盛の子資盛(すけもり)が、岡ノ内のナダニの岩屋に落ちてきた。
資盛より11代目善住という人が、小田々村(現在の仙頭)の光明寺の住職となって移り住んだ。それは南北朝時代のことである。
善住は平家の正統で、家柄はすぐれており、人望もあつかったので、専当職に任ぜられ、代々、小松姓を名乗った。
和尚さんと早乙女
光明寺何代目かの住職に、まっことおもしろい人がおった。
この和尚さんは、京都の公家の出で、光明寺に住職として移って来たということで、槇家の御先祖様であったという。
この和尚さんは、どうしたことか田植が大そう好きだった。
毎年5月の田植が始まると、田の畦に座って田植の早乙女の姿を一日中眺めるのが常であった。
昔は、里の娘達がゆい(協働)で田植をしていたので、なかなかにぎやかで、はなやいだ風情であったという。
和尚さんはそんな早乙女の後姿を見ては、
「誰かさんのおつべ(おしり)は太いぞ。誰かさんのおつべはこんまいぞ。」などと、歌にしてひやかしていた。
あんまり和尚さんが、田んぼから田んぼへつきまわり、ひやかすので、早乙女達は、
「和尚さん、まちよりよ。こんばんいいものをやるき。」と声をかけた。
和尚さんは何のいいものをもらえるのかと、晩方のくるのをまちかねていた。
やがて、夕方、田植が終わると、娘達はてんでに田の泥を持って和尚さんのところへ走りより、
「きょうは、私らあのとぎ(話し相手)をしてくれたお礼じゃあ。お化粧して進ぜましょう。」と、歌いながら和尚さんの頭といわず、顔といわず、白い衣までも泥でぬってしまった。
和尚さんは、これは一本やられたとは思ったが、そこは知恵者のことで、負けずに、
「こりゃあええもんもろうた。ええもんもろうた。」と言いながら逃げ帰った。
それでも、純情な村娘達は、和尚さんが可哀想になり、夜が明けるのを待ちかねてお寺へ行き、昨日汚した白い衣をきれいに洗ってあげることを忘れなかった。
和尚さんはそれを喜んで、部落中の田植がすべておわると、さなぼり(田植が済んだ後のお休み)のお祝いの日には、必ず娘達が奉納した絹糸かがりの手まりを軒につるして虫干しをしてくれたという。
昔は仙頭の里に生まれた娘は大人になったとき、手作りの手まりを光明寺に奉納する風習があったそうで、旧盆の14日の盆祭りには、大きな提灯の下にこの手まりをつけて、東西の若衆がそろってにぎやかであったらしい。
こうして仙頭の里人はお寺とお坊さんとを中心に心豊かに暮らしていたものだった。
出展:これも方丈ものがたり
NPOいなかみ