2021年3月発行の「いなかみだより№36」をお届けいたします。

香美市の移住者インタビュー04

Zion Valley Farm  高橋宇為さん・真由さん

香美市物部町大西で「山にこもりながらも、常に、世の中の流れにリンクしながら生きている。」という実感をもって暮らす高橋さんファミリー。現役のかまどがある台所で、暮らしの変遷をお聞きしました。

高橋宇為さん・真由さん(物部町大西.屋地続きの畑にて)
高橋宇為さん・真由さん(物部町大西.屋地続きの畑にて)

宇為(うい)さん    千葉県生まれ。幼少期に家族で香美市香北町谷相へ移住。親世代が、農薬や化学肥料を使わないブルーベリー栽培を始める。中・高校時代は、埼玉県にある「自由の森学園」で寮生活。大学卒業後は、東京都内のジャマイカ料理店勤務。

真由(まゆ)さん    埼玉県出身。大学卒業後、ラオスで約2年間現地支援を行い、その後、都内にあるラオスの支援を行うNPO法人に勤務。

学生時代に出会ったおふたりは、東京で暮らした後、香美市内でZionValleyFarm(ザイオン・バレー・ファーム)を営む。子ども3人(未就学・小学生・中学生)の5人家族。


田舎暮らしへのきっかけ

宇為さんは、中学校から県外で寮生活。長期休みのたびに帰省し、夏はブルーベリーの収穫アルバイトをしていた。高校2年生頃からは、農作業で体を動かして働く気持ちよさを自覚。大学生時代は、稲刈りシーズンにも手伝いに戻る生活を続けるも、卒業後はジャマイカ料理店の主要メンバーとして店に立つ。ところが、次第に「自分のやっていることが、消費と消費の間にいるだけで、地球の負担になっている」ともどかしさを感じるようになっていた。仕事で肉を料理しているにも関わらず、宇為さん自身はお肉を食べることが出来ない時期もあったそう。店もチームも好きだったが、通勤する電車の中では「なんで、過剰な消費を前提とする在り方に加担するような生活をしているのだろう…」と、涙が出ることもあったという。

真由さんは、ラオスの支援を行う仕事に就いていた。約2年間ラオスで過ごした中で、ラオスの人々が持つ豊かさも知っていたので、「東京で消費する暮らしをしながら、余ったお金をラオスに送り支援する仕組みは、地域間にある経済格差のもとに、どこかを搾取することで成り立っている」と矛盾を感じるようになっていた。

それぞれ思うこところがある中で、第1子の妊娠をきっかけに「子育てするなら東京じゃない」という思いは強くなった。その時点では高知の生活を思い描いたわけではなかったが、安定期に入り真由さんにとっては2回目の来高の際に、おふたりの中に高知で暮らすイメージが湧いた。

 

Uターンから、さらにIターンへ

宇為さんは仕事の引き継ぎに1年かけ、2008年1月に家族3人で東京から香北町谷相に移り住む。実家はブルーベリーの苗木を育て、増産の準備を始めてくれていた。一年目から自ら耕作する田んぼを始め、同じくその年の5月から高知オーガニックマーケットが開催されることになり、農業とマーケットへの出店という2本立ての生活が始まった。

自分たち世代の家業を作っていく中で、2010年夏、宇為さんの父親が他界。同年冬には第2子の誕生と、生と死に向き合う時間が訪れる。さらに、2011年3月の震災をきっかけに、これからの暮らしを考える中、自分たちにとって本当に必要なものを生産していきたいという思いから、味噌作りをスタート。生活の軸をどこに置くかを考えて続けていたところ、縁あって、谷相よりずっと山深い物部町大西へ移住することになった。それが2013年1月のことである。

 

玄関(大西の家)
玄関(大西の家)
2つの薪ストーブとかまどの煙突がのびる大西の家と、庭の風景
2つの薪ストーブとかまどの煙突がのびる大西の家と、庭の風景

 

山の文化

同じ香美市内の山間地域ではあるが、香北(谷相)と奥物部(大西)の生活の違いについて、「谷相にいるときはまだ、自分たちの価値観とか暮らしは、戦後70年くらいのうちに築かれたものの上に成り立っている感じがしていたけど、物部に来たら、江戸時代の後半とか明治から続いている暮らしが細々と残っていた」という。それゆえ「大西では、山の生活文化やその技術の話を聞くだけでなく、手を動かして一緒に作業しながらを見ることができた」とのこと。この8年間で、生活の一部として、山菜の採集や保存方法、こんにゃく作り、箒作り、炭焼きなどを近所の方から教わり、地域に伝承される“いざなぎ流”の文化が日常的な習慣として続いている様子を、たびたび見聞きしてきたそうである。

地元に伝わるさつまいもを材料にする醤油作りも、一緒に作業し、教わった。色はうすく、旨味が強い。
地元に伝わるさつまいもを材料にする醤油作りも、一緒に作業し、教わった。色はうすく、旨味が強い。

もうひとつ大きな違いは、自然の空気と、生活水が「断然においしい」ということ。水は公共の水道ではないため、水源や水路を集落で共同管理し、日々の管理だけでなく、大雨の後などに住人の手入れが必要となる。おふたりは、「この土地の昔の人達が、山を切り開き石垣を積んで田畑を作り、それらを放棄せずに維持し続けたおかげで、わたしたちが大西に暮らすことができる。今の人が、新たに拓くことなどできない。地元の方々に対しては、尊敬することしかできない」という思いで暮らしてきた。

集落の中ほどに位置する田んぼ。 大西では手植えすることが多かったので、懐かしがる地元の方がよろこんで手伝ってくれることもあったそう。
集落の中ほどに位置する田んぼ。
大西では手植えすることが多かったので、懐かしがる地元の方がよろこんで手伝ってくれることもあったそう。

 

ゆるやかに訪れる転機

大西に来た当初は、炭焼きや狩猟もやってみたいと、気持ちは自給する生活へと向かっていたという。谷相にある田畑でもブル−ベリーと米・大豆の栽培を続けながら、近所の方から生活の術を習い、山暮らしを満喫する中、第3子も誕生。子ども達それぞれの成長により生活圏もどんどん変わってくる。同時に「これは、今は無理だな。これをやっていたら生活が回らない」と、今、取り組む対象がはっきりしてきたことで、谷相で出来ることや、やりたいことが見えてきた。また、これから先には、谷相に暮らす母親の農作業も引き受けていく必要が出てくることも想定している。

「大西では暮らしに重点をおいてきたが、今はもっと農業に向き合いたい、そのためにも農地二拠点の移動を減らそう」と思い始めた頃に、大西で耕作してきた田畑を継いでくれる若い人が現れたことで、谷相に戻る気持ちが固まった。そして、この春から、谷相での生活が始まる。

 

これからの山暮らし

ブルーベリーを栽培してジャムを炊き、同時に米や大豆を育て、一年かけて味噌を作る。餅をつき、柚子の加工も行い、畑の作物を使ったお菓子を焼き、各種生産物をお客さんに届ける。この3~4年は、年間通してのルーティンが安定しているので、これからは、それぞれの作業をより丁寧に取り組んでいく方向だ。「ブル−ベリーでジャムを作ることは、ヨーロッパで昔から甘味を使った保存食の方法だし、味噌作りもずっと続いてきた調味料。自分たちは時代を超えた流れのなかの点に過ぎない。そこに自分たちの想いものせながら、継いでいきたい」と。すでに、新たなブルーベリーの農地も準備している。

営農の思考については、「田畑は1年一作の流れであり、果樹は10年20年かそれ以上の世代をまたぐ流れがあり、その流れの両方が気持ち良くて、楽しい。また、ありがたくもある。これから農業をやってみようと考える人には、田畑と果樹の両方をやることをおすすめしたいと思う」と、伝えたいことも合わせ話してくれた。

 

インタビューの最後に…

宇為さんは、田畑に向かいながら、身近な方々の死と3人の子の誕生を迎えてきた中で、ご自身のテーマは「どう死ぬか、に帰結する」という。

「山の暮らしは、田んぼも畑も、沢山の生と死のぐるぐるした環(わ)の中にあることがリアルに感じられる。種を播き、植え育てて、収穫し、種を採って残す。土の中では微生物の生と死がくり返され、木々は年ごとの多い少ないはあるけれど、実をつけてくれる。その生と死の一部をいただき、わたしたちは生きている。その中で、どう畑を増やしていくか、どう稼ぎを作っていくかを考えている。その先には、どう死ぬかということに焦点を合わせて考え、動いている」「死ぬまで田畑と共に暮らし、生きていきたい」としみ出てくるような想いを語ってくれました。

 

ブルーベリーの紅葉(谷相近辺の畑/2021年1月初旬撮影)
ブルーベリーの紅葉(谷相近辺の畑/2021年1月初旬撮影)

奥物部の山で暮らした日々から「山にこもりながらも、常に、世の中の流れの影響からは逃れることは出来ないし、その接点を意識しつつ、見直すところは見直しながら生きている。」という実感を得た。その実感と共に、Zion Valley Farmの新しいステージが始まります。


(記事作成:NPO法人いなかみ)

 

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