香美市物部町の産業遺産ともいえる“韮生鉱山”へ行ってきた時の話をご紹介します。物部町上韮生(かみにろう)の最奥にある「久保地区」には、かつて“韮生鉱山(にろうこうざん)”なる鉱山が存在しました。
鉱山は昭和初期に開発され、マンガンや水銀などが採掘されていたようで、戦時中は軍需としてマンガンが必要とされたため、鉱山で働いていたら徴兵に取られなかったというほど重要なものだったとか。戦後、何年かして鉱床が枯渇したため、休止鉱山となり現在に至っています。
韮生鉱山へ実際に行ってみました!
地元の方に案内してもらって、足場の悪い道を進んでいきます。
途中、ニホンカモシカの頭蓋骨を発見!
石垣の跡。この辺りも昔は畑があったそうです。
歩くこと20分あまり、鉱山の入り口に着きました!
「危険 廃坑内立入禁止」との立て札が。ここからマンガンが出されていたわけですね。
鉱山の仕事とは?地元のおじいちゃん談
地元でも鉱山について知っている方は少なくなってきています。鉱山跡に行くにあたって、久保に住むおじいさん(昭和6年生まれのTさん、昭和7年生まれのHさん、昭和11年生まれのSさん)から当時の貴重なお話を伺うことができました。
「15歳から1~2年、鉱山で働いた。働いた経験があって今おるのは、自分くらいのもん。」(Sさん)
「マンガンの塊は“あんこ”と呼んでいて、鉱山内のあんこは土と違い、黒っぽくて重かった。」(Sさん)
「掘削は、鉄製40~50センチのノミ(八角形か六角形)を焼いて先を尖らせものを使い、石頭(せっとう_ハンマーのこと)で穴を開け、ダイナマイトを詰めて爆発させていた。」(Hさん)
「掘れた岩はテミでトロッコに乗せて選鉱場まで出してきて、そこで選鉱夫が、いいものと土砂交じりと2級、3級と分けた。」(Sさん)
「昭和初期頃、選鉱したマンガンはここから馬で、途中からはトラックで高知市の桟橋まで運ばれていたようだ。」(Hさん)
「岩盤に早く穴を開けれる人は報酬が良く、“賃もり”といって、報酬を決めるのに競争をした。」(Tさん・Sさん)
近くの岩場に、鉱夫が穴を開ける競争をしたと言われる穴も残っていました。
最近では、産業遺産や遺構といったものが注目を浴びてきていますが、まさか物部でも鉱山が稼働していたとは驚きでした。当時の経験者や鉱山があったことを知る人が少なくなってきたいま、“韮生鉱山”は残していきたい物部の歴史の一つですね。
この記事を書いた人
【プロフィール】矢野 恵 高知市出身。2012年10月より3年半、物部町の地域おこし協力隊として活動後、現在土佐山田町在住。 物部の人、自然、文化、いざなぎ流をこよなく愛する。物部や香美市の魅力を発信し、地域文化の面白さや奥深さを伝えていこうと鋭意活動中。 |