東くめ作詞・滝廉太郎作曲の童謡「お正月」。
この曲の発表が1901年なので、100年以上も前の曲になります。
その歌詞から当時の子どもたちはお正月に、男の子は「凧上げ」や「こま(コマ回し)」、女の子は「まり」や「おいばね(羽根つき)」で遊ぶのが楽しみだった様子が伺えます。
お正月の凧揚げには、一年の幸福を祈願したり、願掛けの意味もあったそうです。
他にも、男の子が産まれた家は凧揚げをする風習があったことから、男の子はお正月になると凧揚げをするようになったという説もあります。
最近はあまり見かけなくなりましたが、昭和の時代までは各地に残っていた正月の風景。
今回は「凧揚げ」にスポットを当ててみたいと思います。
紀元前200年頃の中国漢の時代、高祖劉邦(りゅうほう)の家臣韓信が、敵との距離を計るために紙鳶(しえん)をあげた、という伝説が残っています。
紙鳶とは凧のこと。相当古くから世の中にはあったのですね。
日本には平安時代以前に中国から伝わってきたと考えられていて、紙鳶(しえん)または「紙老鴟(しろうし)」と呼ばれ、最初は貴族の遊びだったようです。
鳶や鴟はトビのことで、紙で作ったトビを意味します。
戦国時代には武士が凧を通信手段の一つとして使用しています。
土佐でも戦国時代末期に長宗我部氏が兵器として使ったという記録があります。
その頃の凧には伝説上の生き物である鳳凰や竜、鳥や獣などが描かれており、見た目も勇ましくなってきました。
子どもの遊び道具というより、大人の、それも兵器としての名残のある合戦風の勇壮さや心意気を示す凧が主流であったことは間違いありません。
庶民に広まってきたのは江戸時代。
そこでも唸(うな)り凧や喧嘩凧といった大人のものでした。
これが相当盛んだったらしく、凧が落下して被害が出たり、大名行列に落下する事故も発生。
凧上げが原因の喧嘩で、けが人や死者が出ることもあり、幕府は「いかのぼり禁止令」を出しています。
そのころは凧ではなく「いかのぼり」と呼ばれていたそうです。
形がイカに似ているから、でしょうか。
そこで庶民は考えた。
「これはイカではなくタコだ!」「いかのぼりではなくタコをあげているんだ」と言って遊んだとか。
そこからタコと呼ばれるようになり「凧」という漢字も出来たとか。ほんまかいな(^^;;(諸説あります)
凧と言えば、どんな形をイメージされますか?
長方形で足が下に2本ついているものが一般的だと思いますが、土佐凧は違います。
土佐凧は正方形で、角を上に立てて菱形にし、上下の一本だけ他より長く通した骨にジャーラ(紙テープ等の尻尾)を付けて揚げます。
プロが作った土佐凧は絵柄や色彩が見事で、まさに芸術品。これらが空に舞う姿は美術鑑賞をしているような気分になります。
また、凧の大きさは様々ですが中には大凧と言われるものがあり、1辺が4mを超えるものも。
ここまで大きくなると、骨は丸竹をそのまま使って見た目も重厚。
もちろんこれは大人たちが総掛かりで揚げます。
これが上がると、壮観そのものです。
近年まで、男子出生の正月や、厄年、還暦の春など、節目節目を締め括る大切な行事としても凧揚げは盛んに行われていました。
特に高知県東部の海岸地帯では尻尾に賞品札を付けて大盛りあがり。
その原資は地元のお金持ちの家が「家格」を誇示し大盤振る舞いをした寄付金で、箪笥、布団、鏡台、自転車、酒等の豪華賞品を提供。
参加者は大人も子どもも喧嘩凧を繰り出して、大きな騒ぎだったそうです。
時代とともに張り巡らされた電線や空き地の減少、そもそも子どもたちも外で遊ばなくなってきたことから凧上げはあまり見かけなくなりました。
そんな中でも、香美市近辺では香美市物部町と香南市野市町・香我美町で大きな凧上げイベントがあります。
参加者はや自作の凧や買ってきたものを自由に揚げて構いませんし、大凧を見て楽しんでいただくことができます。
冬の透き通った空気の中、凧を片手に楽しんでみませんか?
三世代交流凧揚げ大会
日時:2020年1月19日(日)
※強風予報のため、1/12より日程変更になりました。
開会:午前11時30分
場所:物部グランド(大栃公園の隣)
問い合わせ先:香美市教育委員会物部分室 ℡0887-52-9290
祝凧や大凧もご覧いただけます。お昼には七草粥が振る舞われます。
香南市の凧上げイベントはこちらをご覧ください。
<参考資料>
土佐の手技師 著者:西岡寿美子
NPOいなかみ