「繁藤支所を出て100mぐらい来た所で、突然バリバリという音とともに電柱が倒れ、路上で高圧線が青い火を吹いた。そして現場あたりに真黄色な霞のようなものが立ち上がり、停車中の機関車が川をとびこえて向岸の山肌に突き当り、川床へ消えた。これは一瞬の出来ごとで白昼夢を見る心地であった。」(当時の消防署次長談)
今から47年前の昭和47年(1972)7月5日午前10時55分、国鉄土讃線繁藤駅に停車していたのは、高知発高松行き国鉄快速列車(DF50形ディーゼル機関車+客車3両)。全重量81トンの機関車が空を飛び、客車1両目は穴内川に水没、2両目も脱線して川に突っ込んだ。
それは、繁藤駅沿いの山が大音響とともに幅170m、長さ150m、高さ80mにわたって大崩壊を起こし、10万㎥の崩壊土砂が駅周辺の家屋や駅構内に一気に流入したため。この大惨事で、消防関係者20名他、地元住民、重機を使って災害救助に来ていた会社員、国鉄職員、乗客、高知新聞記者、役場職員など、一瞬にして60名の命が奪われたのでありました。
この土砂災害が発生するまで、現場で何が起こっていたのか、時間を巻き戻してみたいと思います。
昭和47年(1972年)
7月4日(火曜日)
21:30 高知地方気象台からの大雨情報
昼過ぎから降り始めた雨の総雨量は、21:00までに繁藤地区で327mm
7月5日(水曜日)
夜間も断続的に降り続き、朝方の1時間雨量は75〜95.5mm(10mm以上でスコールや台風レベル)、24時間雨量(4日9時~5日9時)742mmの集中豪雨
06:00 1回目、駅前の裏山が小崩壊。家屋に土砂が流入。
06:45 2回目の崩壊。人家裏の流出土砂を除去していた消防団員1名が行方不明。
06:48 3回目の崩壊。雨が激しく再崩壊の恐れがあり、断続的に作業が中断。繁藤地域外の消防団に出動命令。
10:50 行方不明の消防団員の着衣が見えかけていた。
10:54 4回目の崩壊。崩土が流れ出してきたため、東西に数十メートル退避。
10:55 5回目の崩壊。さらに遠くへ退避したが、想定外の大崩壊が…
4回目の崩壊からわずかな時間での大崩壊。
東へ逃げる者、西へ逃げる者、ここなら安心と駅ホームの影に隠れた者…土砂はすべてを飲み込み、一瞬にして穴内川まで流れていったのでした。
最終的に死者60名(大崩壊による死者は59名)、負傷者8名、家屋全壊10棟、半壊3棟の被害に。
災害直後より、1人の人柱も残すまじ、と悪天候の中、自衛隊、警察、消防から地元民まで、延べ20,000人が救助隊・捜索隊として出動。
またその影では当日から8日間に渡り、炊き出しに一般奉仕者が述べ1,275名参加。結果、翌年2月に最後の犠牲者を発見するに至っております。
その後の分析で、崩壊した山腹は元々破砕帯が露出した比較的脆弱な岩盤構造となっていて、折からの大雨で土中に多量の水分を含んでいたため崩壊が起こりやすくなり、小崩壊が起こったことによって、それよりも上部の破砕帯は地下水の流出経路を失い、土中にさらに多くの地下水が貯留され、それが過飽和になった時点で大崩落が発生したと推測されています。
この災害の教訓から高知県の防災行政が見直されたほか、消防団員の研修内容に「現場の状況から危険を察知し避難する判断力の重視」という新たな項目が加わりました。
香美市でも避難勧告等の発令基準をより精微に定めたマニュアルを作成するとともに、防災に関する計画を策定。土砂災害等への対策としては、防災行政無線及びヘリポート等の整備、ハザードマップの改訂など「誰もが安心して暮らせるまち 香美市」の実現に向けて積極的に取り組んでおり、昨年には最新の冊子「総合防災マップ」を発行しております。
香美市民の方には是非この冊子をご覧いただき、防災に役立てていただきたいと思います。
駅から国道32号線を高松方向に数百m進んだ地点には、災害後に整備された本災害の慰霊碑やモニュメントを設けた「繁藤災害追悼の広場」があります。
ここでは毎年7月5日に「繁藤慰霊祭」が執り行われており、故人のご冥福をお祈りするとともに、災害から得られた教訓を市全体で再認識する場となっています。また、同日の10:55には香美市土佐山田町内の消防関連施設からサイレンが流されます。
なお、高野山奥の院参道に設置されておりました殉職殉難者慰霊像は、現在この広場へ移設されております。
この災害に関する詳しい内容は、次のホームページまたは後述の書籍をご覧ください。
いさぼうネット
コラム54 昭和47年(1972)の高知県繁藤災害
引用・参考文献
昭和47年7月豪雨・繁藤山くずれ災害の記録(発行:土佐山田町)
NPOいなかみ