今から約60年前の高知県香美郡物部村(現香美市物部町)。
村を分割し、南米にも物部村を開こうという壮大な計画がありました。

温故知新。忘れ去られようとしている歴史に、私たちは学ぶものがあるかもしれません。

大栃町並み

一般的に、昭和25年(1950)の朝鮮戦争による特需景気から始まる戦後の高度成長期。
物部村でも木材需要の増大や高騰化、電力需要増に伴うダム建設などで、人口増と景気拡大が進んだ時代がありました。

しかし、昭和31年(1956)永瀬ダム竣工の頃から、建設のために整備された道路網の影響もあり急激な人口減少が始まりました。

そのような中、昭和33年(1958)公文包治(くもんかねじ)氏が36才の若さで村長に就任。

公文氏は村の将来を危惧し、数年の内に県や中央省庁を巻き込み、農業構造改善、林業構造改善、国の山村振興事業、県単山村振興事業に取り組んでいます。具体的には、農業の事業モデルを広げる牧場開設や県立高校の本校誘致が上げられます。
このスピードは当時としては異例で、村を思う村長の熱意が関係機関を動かしたのではないかと思います。

それでも物部村の状況は、甘いものではありませんでした。

当時の物部村は高知県最大の村であったそうですが、総面積の90%が山林。
それも半分近くが国有林、1/4が村外在住者の持ち山、村民が所有しているのは残りの1/4。
これまでの木材需要で、村民所有の山に残された大木はほとんどなく、これから育てなければならない若木も切り尽くしている状況。

そして、山林地帯だから農耕地は田畑を併せてわずか500ha。
総人口の75%に当たる農林業従事者は農林業だけでは生活ができず、ほとんどが出稼ぎに頼っていました。

その中で、昭和35年(1960)に11,000人を超えていた人口は、毎年300〜500人が転出。
転出した方の年齢は、物部村史の人口構成図には多くが40才以下であったことが明確に示されています。

慢性的な、労力不足、現金不足、耕地不足。農林業の経済をどのようにして立て直すか。
さらに、国や県の事業はスタートには補助金等の手助けがありますが、事業継続は村が主体に動かなければなりません。
この「事業から取り残されるものをどうするか」も大きな問題です。

こんな状態では将来、村全体が行き詰まってしまう、なんとか打開しなければ。
今後の物部村をいかに。その対策案の一つが南米移住策でした。

パラグアイ地図

狭い日本より、広い大地で一旗揚げたい。
そんな新天地を求める日本人海外移住者の歴史は明治維新から始まりました。

物部村が目指したパラグアイへの日本人移住は昭和11年(1936)に始まり、高知県からは昭和30年代前半から。
そして、物部村からは昭和36年(1961)、2家族が初めてパラグアイに移住しています。

 

昭和37年(1962)

初の物部村からのパラグアイ移住者を追うように、翌年の9月から3ヶ月に渡り、公文村長はパラグアイ、ブラジル、アルゼンチンを視察。
「国民感情もよく、将来性のあるのはパラグアイだ」と、公文村長は自分の目で見、耳で聞き確信したそうです。

ただ、単独移住だと普通作物が精一杯。
営農も旧態依然の域を出ていないことから「集団で、林業、畜産など安定作目を取り入れる必要があります。
集団なら資金面、精神面にもよく、定着、成功もまちがいないと思う」とも話しています。

南米の植民地に広い土地を求めて、みんなで団結して大規模な農業経営を行い、豊かな生活を築き上げる。
かつ、村に残った農家一戸当たりの経営規模を拡大し、出稼ぎに頼らずとも農林業者の生活を安定させる。

貧しい村が生き残るには、分村しかない。
そうすることで日本とパラグアイに豊かな物部村が実現することを夢見て、南米移住策が動き始めました。

 

昭和38年(1963)

物部村の「広報ものべ」3月号に「海外移住について」という記事が掲載されています。
ここでは、物部村の現実、海外移住後の想定される生活、移住は苦労をしにいくことではなく夢の実現であることを説明。

4月号には高知県越知町出身でパラグアイ在住、農協組合長を務めている藤原氏が物部村で講演した際の主な内容が掲載され、12月号からは移住地紹介記事の連載が始まっています。

その中で、5月には物部村からパラグアイ移住へ2家族が出発。

物部村海外移住促進協議会は、村民に海外移住についてのアンケートを実施。
その結果、「移住してもよい」「移住に関心がある」との回答は300戸を超えました。

 

昭和39年(1964)

3月 村議会は「南米集団移住案」を可決。

その計画数は100戸の集団移住。内容は、農家、商店、先生、医師と一村を形成する陣容。
移住によって農家・農地を整理し、村に残った農家一戸あたりの経営規模を拡大。
集団移住を考え続けてきた物部村は、南米パラグアイのイグアス移住地へ船出することになりました。

海外移住事業団からの資料による研究や、公文村長の現地視察による報告などをもとに、南米パラグアイ・イグアス移住地の物部村営農計画書作りも始まりました。

イグアス移住地はパラグアイの首都アスンシオン市から約280km。
この移住地87,700haは海外移住事業団が昭和35年(1960)に購入したもので、昭和36年(1961)8月には、パラグアイの他の移住地から既に100家族ほどが入植し、営農を着実にすすめていました。

また、この地域はパラグアイ⇔ブラジルの国際道路があり、パラグアイの最重点開発地域にも指定され、今後の発展を期待できる要素もありました。

物部村の土地とされたのはこの内の10,000ha。

ここに畜産を基幹として農作物を加え、1世帯あたり60haを目標とし、他に1,500haの草原を共同牧場として経営。
畜産が軌道に乗ってきたら、パルプ企業や林業家の進出をにらみ、林業の協業を行い、経営の合理化、規模の拡大を図る。

当時の日本では想像を超える、大きな夢多い営農計画です。

 

昭和40年(1965)

村長の年明けの抱負にも力が入っています。

「これからの移住は単独ではだめだ。農業指導者、教員、建築者、美容師など、あらゆる職種の人をまじえた集団移住で、一つの村を形成しないと行けない。100世帯ぐらいで集団移住し、1世帯100ha、全部で10,000haを耕作して、畜産と林業を主体に共同経営をする。そして日本の7桁農業を上回る、1世帯1千万円以上の8桁農業を目指す。幸い、村内には移住について関心を持っている人が300戸ぐらいあるので、貸付金などで国、県の力を借りて、移住を実現したい。」

3月 村議会は「海外移住計画の実施について」という議案を可決。その後、事業募集を開始。

この頃、全国的には戦後の海外移住ブームが下火になりかかりつつあったようで、海外移住事業団の巡回PRでも、集まるのは映画見物の婦人、子どもばかりという新聞記事もありました。
その中で、個人移住ではなく、村ごと移住し、第二の物部村を南米に建設しようという試みは、全国でも注目されることとなっていきました。

 

昭和41年(1966)

2月 海外移住事業団の係官が常駐し、役場内に「海外移住相談所」を開設。
村民が気軽に相談に訪れ、この頃はどの人も移住への気持ちは十分だったようです。

大栃高校には海外移住クラブがありました。
「山に囲まれた狭い土地に住んでいるより、大陸へ行って自分の可能性を試してみたい」そんな思いを胸に、生徒たちは海外移住に関する研究・討議、時には南米移住船に神戸から横浜まで乗船し、これから移住する人と交流を行い、未知の世界への夢を語っていたそうです。

当時の新聞記事には次の内容も掲載されています。

  • 「技術を身につけた若い人が中心となる移住村・物部を、大陸の天地に実現するべきだ」とする村民の期待も当然。
  • 40代の人の声として「ネコの額のような土地にしがみついているより、大規模の農業ができたらと考えていた」。

物部村の海外移住担当者のみならず、村長自らも東奔西走。
現地の実情を、映画やスライドで再三説明に努めました。

神池雪景色

募集開始から数ヶ月。
だんだんと雰囲気が変わってきました。

現地に行くには、最低どうしても当時のお金で200万円から300万円を用意しなければなりません。
各種の融資があるといっても「借金までして」という考えがかなり村民にあったようです。

また、これに輪をかけたのが土地の処分問題。
移住希望の方の不動産を売買することは容易くありませんでした。

その頃の雰囲気を、続物部村史は次のように伝えています。

「村長の考えは甘すぎる。もし失敗でもしたらどうするのか」と厳しい発言をする人も出てきた。昭和39年3月の議会で「南米集団移住案」を議決した議会内部にも意義をとなえるものもあった。ある議員は、「議会で決めたといってもあくまでも前段階のものだ。いやがる村民を無理に引っ張って行ってもだめだ。どうも甘かったような気がする」また、ある議員は「どうせ村外へ流れ出ていく者が多い昨今、無理して南米まで行く必要なないだろう。わしは当初から反対だった」と知らぬ存ぜぬを決め込む無責任ぶりをみせるありさま。

さらに海外移住事業団からは、日本国内や他国から、物部村の土地としてイグアス地区に確保した10,000haを譲ってほしいとの要望が相次いでいる、という知らせが届きます。

また、高知県知事からは「物部村としてではなく、高知県として移住するなら100世帯はすぐ集まる」との提案が届きます。
しかし、公文村長は海外移住の目的は物部村の将来を考えてのことであるので、この話は断っています。

そのような中で、計画の100世帯移住は見送り、10世帯を先発隊とすることに計画を変更することになりました。

大栃橋

昭和42年(1967)

募集は3月末まで続けられましたが、結果10世帯の移住希望者は集まりませんでした。

村長は「自分自身」が行って開拓し、移住が将来有望であることを証明しようと決意。

4月28日 公文村長は村議会議長に「移住のために辞職する」と辞職願を手渡します。
この時の、村長の言葉です。

「ことさら目新しいことではない。来るべきところへきたと思っている。あちらへ行ったら郷里ともよく連絡をとり、第二の物部村づくりに努力したい。せっかくの土地をよそへとられたくないし、門戸開放の意味で先べんをつけるつもりだ。」

5月4日 村議会は全員協議会を開催。席上、この辞職願は満場一致で承認。村長自らの移住が決定。
結果、公文村長一家5名と、過去にカリフォルニア州で3年間農業実習を経験している岡林さん夫妻の7名が先発隊として移住することになりました。

6月8日 大栃小学校屋内体育館において、公文、岡林両氏の盛大な壮行会を開催。

6月18日 物部を出発。
この様子は、広報ものべに次のとおり詳細に記載されています。

「どうも皆さん長い間お世話になりました。」
6月18日13時 前村長公文包治氏は役場控室より姿を現した。家族の人、岡林夫妻が後に続く。見送りの人並がドット押し寄せる中、門脇村長挨拶の後、萩野議長の音頭で成功発展を祝って万歳三唱。いよいよ出発である。
照りつける夏の日をうけ、物部村旗と公文岡林両家の移住を祝う大のぼりを先頭に、大栃駅までパレード。
「体に気をつけて頑張ってね。」「ありがとう、一生懸命やります。」
堅く手を握り合い、別れを惜しむ。友人、知人、喜んで送るべき我々だが、目がしらを赤くしての見送りである。大栃にこのように多くの人の出たのは今まで無いことだろう。車も一時立ち往生。30分もかかり、ようやく駅前に着く。いよいよ村長ともお別れである。
「別れのテープを」と出すと「いや私も高知まで」と、その多くの人は高知へと公文岡林両家の後に続く。自家用車、ハイヤー、役場職員の貸切バスと20数台が高知港へ向かう。沿道には何事かと立つ人、いよいよ出発かと手を振って見送る人、高知に着くまでに数回、車を降りての別れもあり、15時高知港につく。

出港の時間が近づくにつれて、村内の人は無論のこと、村外の人、知事、農協連合会藤田会長ら県関係者、海外事業団の人、高知港始まって以来の見送りの人となった。
知事の音頭でパラグアイ移住先発隊の壮途を祝し万歳三唱。職員より花束が贈られ、拍手の中にタラップを渡る。デッキに顔を出した一行に、五色のテープと歓喜が続く。駆けつけた高知学園のブラスバンドが「南国土佐をあとにして」の演奏を始める。まさに今日のために作られた曲といっても過言ではなかろう。
パラグアイ村長頑張れ!岡林君頑張れ!
「ありがとう。必ずやります。」
ハンカチを目頭に、見送りの人に手を振り応える。

このような中に、いよいよ17時30分出航のドラが鳴る。静かに動き出した船体、ほたるの光の曲が流れはじめた。一瞬体がしびれた感じで、今までこらえていたものが急にこみ上げてくる。ほおに冷たいものを感じつつ最後のシャッターを、デッキでいつまでも手を振る一行、岸壁で小旗をいつまでも振る見送りの人、南米の地に幸多かれと祈りつつ、夕やみ迫る高知港の空に物部村旗が公文・岡林両家の門出を祝福するかのようにひるがえっていた。
(編集委員K、広報ものべ昭和42年7月10日発行第115号より)

6月29日18:00 神戸で移住講習を終え「あるぜんちな丸」で横浜へ
7月2日 同船で横浜港からパラグアイへ

槇山葛橋

9月1日15:00 現地イグアス着

当初は、イグアスにある移住者収容所に宿泊。
その時の様子を、次のように手紙で伝えています。

  • 電灯・水道・その他の施設は完備、不便はない。
  • 住宅は市街地にある宅地を25アール購入し、建設中。9月末には完成。
  • 住宅から学校までは徒歩2〜3分、病院へは5分、事業団や農協へは2〜3分という場所で、物部村時代より便利だ。
  • 住宅からカンボ(開拓する草原)までは約12km。道路は整備され、当分モーター(バイク)で通作する。
  • カンボのすばらしさは想像以上、良質の野草も豊富で、当分はカンボ中心の畜産へ計画を変更した。
  • 10月末には200頭の妊娠牛を放牧、3〜4年後には500頭導入できる見通しだ。

ただ、困るのは自治体が無いことだそうで、自治会費、教育費、日本語学校費、治安費などは各部落長が徴収、集金、運動会費や演芸会、野球大会などは全部寄付で行っているという。

「自治法も何もない。経験者がいないので自治法のような規約からつくらなくてはならない。私は牛飼い専門なのに、またここでも自治体の仕事をやらされている」と手紙には書かれていました。

大栃発電所

その後の現地の様子や公文元村長の動向を、手紙や記録から簡単にまとめてご紹介いたします。

昭和46年(1971) 移住から4年

  • 公文元村長は自治体の責任者になっている。
  • 事業の中心である畜産について、肉牛は1,000頭位で順調に頭数を増やし、農家の手取りを増やすため、屠畜から加工・販売まで一貫処理を準備している。
  • 乳牛、養豚、養羊も事業化に向けて動いている。
  • 新たに入植する人の中で園芸を目指す人は苦労している様子。
    農業開拓を楽観視している人には相応に回答している。

手紙では物部村のみならず高知県の人口減、日本の農業・林業の衰退を危惧されています。
同時に「南米イグアスの土地は「拓(ひら)いても拓いても尽きない。開拓できたのは全体の3%ぐらいだ」ともあり、その可能性の大きさが伝わってきます。

昭和48年(1973) 移住から6年

  • 前年末に一時帰国し、高知、東京で4ヶ月滞在。
  • 高知県知事との面談を始め、東京では海外移住事業団、外務省、農林省、林野庁、建設省、通産省、文部省等訪問。パラグアイへの移住サポートに向けて情報収集や交渉を行った。
  • 東京圏の海外移住希望者はとても多かったようで、相当数の座談会に出席。
    若い青年男女に対し、夢と希望を大陸に向けている人たちのために何とかできないものかと感じられたそうです。

この年の現地の様子は、開拓面積も広がり農業所得は年々増加。
肉類は次第に値上がりして喜んでいると伝わっています。

昭和51年(1976) 移住から9年

  • イグアス自治会を作り、町が1つ、村が3つある。
  • 入植以来、公文元村長は公的な仕事も行っており、この時はイグアス自治会長で、いわば郡長のような立場であったようです。

平成2年(1990) 移住から23年

  • 公文元村長はパラグアイ高知県人会会長。
  • 高知県出身者は約180世帯、1200人あまり。
  • 子弟らの教育施設として、学生寄宿舎を備えた県人会館の建設を計画している。

平成5年(1993) 移住から26年

  • 現地に社会福祉センターを建設。

平成8年(1996) 移住から29年

  • 健康保険制度の整備、総合病院建設開始。
  • この時点で、日本人は約1万人が入植。
    この内、高知県出身者は約200世帯、1,000人で、同国への移住者では全国トップ。

平成20年(2008)8月2日 移住から41年

  • 公文元村長、老衰の為午前5:45逝去。享年86才。

神池地蔵様

今年は公文元村長の十三回忌。

来年は最初の物部村からのパラグアイ移住から60年になります。
令和2年(2020)2月1日現在の物部町の人口は1,674人。

この壮大な計画のプロセス、結果、その背景にあるものなど、将来の物部のみならず、地域振興を考えるとき、教えてくれているものがたくさんあると思います。

みなさんはいかが感じられますでしょうか。

神池小学校

<引用>
続物部村史 発行:物部村
広報ものべ 発行:物部村

<写真提供>
物部町有志

<参考資料>
高知新聞記事
海外在住県人 現地だより集 発行:高知県農地開拓課、高知県海外移住家族会、海外移住事業団高知県事務所
海外土佐っこだより 発行:海外移住事業団高知県事務所
新しき村をめざして:高知県物部村公文村長等の移住 制作:海外移住事業団、放送動画制作:毎日放送

<協力>
JICA横浜 海外移住資料館

<監修>
香美市教育委員会物部分室、香美市立図書館物部分室

NPOいなかみ

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