新緑の季節、田んぼに水が入り、苗が春風になびく光景が広がってきました。

高知県の年間降水量は、都道府県ランキング堂々の1位で3,659㎜。第2位鹿児島県2,834㎜の1.3倍も雨が降っているのに、日照時間が全国2位と、植物にとっては最適の環境にあります。(2010年統計資料より)

これだけ雨が降るのだから、水には苦労しなかっただろうと思うかもしれませんが、水をコントロールする技術がなかった昔は、それはそれは大変なことになっていました。数年毎に起こる旱魃(かんばつ)や大洪水。今回は水争いに焦点をあてて、その歴史の一部をご紹介したいと思います。

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香美市土佐山田町の西側に新改川という川があります。

ここは大雨で有名な繁藤近くの甫喜ヶ峰(ほきがみね)の山間に源を発する川でありながら、水量が少なく、日照りが続けばたちまち水論が起こり、百姓一揆が蜂起し、紛争の絶え間がなく、土佐山田町史によると新改川沿岸の水喧嘩は県下の名物とまで言われていました。

ここで主に争っていたのは、現在の土佐山田町管内の入野・新改・久次(右岸)、須江・植(左岸)の地域の人々。

争いの原因は、藩政時代の仕組みにもありました。水利権は本田(長宗我部時代に開発されていた田)7割、新田(江戸時代に開発された田)3割と定められ、その代わりに本田は、新田の2倍の貢物を納めなければならない藩の決まりがあり、権利も強い代わりに負担も多いといった具合。要は水の配分がそもそも面積に応じた平等なことにはなっていなかったのです。

恵の雨さえ降れば、たちどころに解決する争いではあるのですが、旱魃のたびに右岸・左岸が対立。まさに我田引水のことわざの如く、農業用水をめぐり常に水争いを繰り返したのでした。争いの道具は、鎌、鍬、石…まさに流血の惨事です。

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明治時代以降は争いの詳しい資料が残されており、例えば明治6年(1873)の資料にはこう書かれています。

明治6年(1873)、干天続きで、植田地区の水田が枯死寸前の状態になったため、新改川下流の植田地区の農民は上流の須江部地区の農民に対して、コロンボ堰の分水を迫った。しかし、拒否されたため、両者が数回にわたり、衝突した。後免、山田両警察署は警官十数名を派遣し鎮圧に当たったが、数名を逮捕することとなった。対立が一ヶ月余続く中、一夜大雨があり、紛争は収束した。

そのわずか3年後にも、さらにひどい旱魃が…

明治9年の旱害は、明治6年の2倍3倍にも上った。新改川のコロンボ堰からの分水をめぐり、上流の須江部地区と下流の植田地区の農民が対立した。このため、両地区は県庁に対して配水の措置を誓願した。県は、上流の大釜堰から下流の掘ノ井堰に24時間交代で配水する官命を下した。これに対して、八ノ谷堰の関係住民百名余が放棄し、鎌鍬をもって反対した。このような状態が20日も続いた後、豪雨が田んぼに注ぎ、用水の争奪は解決した。

眼の前で枯死してゆく田畑は農民たちにとっては死活問題で、命をかけて僅かな水を奪い合うほかなく、「新改川に水さえあれば」それは両岸村落を耕作する農民の空しく切実な祈りでもありました。

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明治26年(1893)にも水不足が…。このとき水争いに疲れていた新改川沿川の村の人たちから甫喜ヶ峰疏水の計画が持ち上がります。これは吉野川水系の穴内川の水を新改川に引き入れるもので、久礼田や新改の村長などが計画を進め、高知県庁にも請願して、疏水の工事は明治29年(1896)に開始され、明治33年(1900)に完成。

そしてこの水を使って、高知県で最初の水力発電所である平山発電所(旧)が明治42年(1909)に完成。そう、ここ土佐山田町平山地区は高知県の水力発電発祥の地でもあるのです。

今は、蛇口をひねったら水もお湯もふんだんに出る時代。昔の苦労に思いを馳せながら、水の恵みに感謝したいと思います。

 

NPOいなかみ

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