香美市物部川にある杉田ダムから香北町方面へ1.5kmほど進んだ国道沿いに石碑が3基並んでいます。

ここは、今では忘れ去られようとしている歴史の舞台。いったい何があったのか、ご案内したいと思います。一部不快な表現もありますが、予めご了承ください。

バス事故慰霊碑

戦後の混乱や配給制度もまだ残っていた昭和25年(1950)、香美市は木材需要の高まりや物部川ダム建設の始まりで、活況を呈する時代に突入していました。人の往来は当然激しくなり、自家用車は夢のまた夢という時代なので、路線バス需要が高まっていました。

当時、香美市内の主要バス路線であった大栃線は日本国有鉄道(国鉄)が運行を行っており、利用者数は1日2,400〜2,500名、四国でも2〜3番目の重要路線であったそうです。

物部川−鏡橋1960

事故の概要

それは秋も深まり始めた昭和25年(1950)年11月7日、国鉄バスが物部川へ転落するという大事故が発生しました。

午後6時20分、在所村行きの最終バス(トヨタ号、中型木炭車、定員33名)は満員の通学、通勤客を乗せ、土佐山田駅を発車。

この時期の日の入りは午後5時前後なので、かなり暗くなっている時間帯。

午後6時55分、国道195号線を走っていた国鉄バスは、石碑のある高知県香美郡美良布町(現香美市香北町)橋川野(はしかわの)付近から物部川に転落したのでした。国道から水辺まで落ちたその高低差は約63メートル。途中の岩盤にもたたきつけられ、車体は木っ端微塵に粉砕。

このときの乗客61名・乗務員2名の内、34人が死亡(即死27名、入院後死亡7名)、重症14名、軽症11名、通院4名。この国鉄バス空前の自動車事故は、当時としても全国的にも稀な大惨事でありました。

物部川−岩

現場の様子

この現場の様子を、当時の複数の新聞記事などからまとめてみました。

  • 後続の国鉄バス大栃行き1台が事故発生後10分ぐらいに現場に到着。
  • 血だるまになって断崖を這い上がって来た軽傷者3名を収容し、美良布病院に急送。
  • 同病院から関係各方面に急報。付近の在所、美良布、暁霞、片地、佐岡、大楠植、山田の各町村から消防団約300名の救援団が出動。
  • 同夜12時ごろまでに被害者全員を美良布町に収容。
  • 対岸の暁霞村白川部落の人たちでこの瞬間をみた者は「ぐっと大きく宙に傾いたかと思うと、グワーンという轟音とともに人が飛び散るのが薄闇の中にみえました」と言っています。
  • 道路には急ブレーキをかけた跡があり、墜落箇所からは断崖のため車体は全く見えず、下方から見上げると崖の岩肌には血痕と肉塊が点々と散らばり全く目を覆う光景であったとの記録もありました。

 

事故発生の20分後、いちはやく現場に急行した美良布町消防団長は凄惨なその夜の現場をつぎのように語っています。

  • 被害者はほとんど沿線の人たちで、近親者、友人たちは自転車やリヤカー、あるいは裸足で走ってかけつけた。
  • 暗闇で「助けてくれ」「オーノ痛いちや」「お母さん」と泣き叫び、ランプで照らしてみるとあちらこちらの木にひっかかったり、石に足を敷かれたり、頭蓋骨を粉砕したり、夜目にもおびただしい血の海であった。
  • 顔もわからず衣服でそれと知る人もかなりあった。
  • 道はなく、救出作業に困難を極め、ムシロの速製タンカで一人の被害者に10人もかかって運び上げ、8時から12時までかかった。
  • 家族たちが肩を血に染め担ぎ上げる風景に、そこここにすすり泣きの声が高まり、路上にのぼりついた安心から息を引き取ったものも5〜6名いた。

 

物部川−杉田下流

遺族の方々

当然、被害者の方々にはそれぞれの人生があり、悲しい運命を感じざるを得ません。

  • 県下高校生は6校、死者10名、重症9名。運動会の準備で遅くなり、殉難した高校生も。
  • 友人に頼んでいたものを取りに行って、いつもより遅いバスになり、事故にあった職業安定所職員。
  • 美良布町小学校教諭(28歳)の校葬には約700名が参列。担当していた児童の読む弔事はひときわ悲しく、奥様(22歳)に抱かれて焼香する遺児(2歳)の姿に、式場には嗚咽の声が満ちた。

 

医師の活躍

この惨事の中で、的確な対応を行った医師の話が残っています。

  •  医師団の吉村医師は戦傷で右眼を失い不自由な身であったが、惨事の報とともに同居中の元看護婦、助産婦を伴って現場に急行。
  • かつて軍医として従軍した経験を活かし、重軽傷者を断定して担架に一々責任者をつけて万全を期した。

また、混乱を避けるため六十余名の遭難者を美良布病院1ヶ所に収容することにしたのも同氏であり、このため遭難者の消息、治療、連絡など最善の措置が行われる途を開いたそうです。

 

物部川−宮ノ口1960

道路事情

実際の現場の国道は、後年完成した杉田ダムの湖底に沈んでいます。

当時の道路幅は約6mの対面通行でしたが、道路の状態は現在とは異なっていました。

水はけを良くするために道路中央部が高いカマボコ型で路面全部が使用できない、また、路肩へ障害物を放置、待機所は物置きがわり、道路沿いには木材積み込みの足場を組んであるなど、行き違い時には危険が多い状態があったようです。

 

事故原因

事故後の捜査で、事故原因には複数の問題が絡んでいるとされています。

当時は現場の道路事情、乗車人員定員超過の問題も取り沙汰されていますが、大きな要因の一つに運転手の飲酒がありました。

今では考えられないことですが、当時の記録には、こんな発言が残されています。

  • 運転手は茶碗1杯の酒を午前11時ごろ飲んでいるが、事故まで別の路線でも乗務しているので、当時前から来た自転車を避けようとした運転の誤りが主原因だと思う。(衆議院運輸委員会、国鉄側答弁)
  • 勤務に際し、運転手の禁酒は法令にも示されているが、他人に勧められたときは断りきれぬこともあるので一般人も注意してほしい。(現地討論公聴会、高知県交通安全協会長発言)

また、事故当日の別の記事で、このようなものもありました。

  • 惨事当日、泥酔して午後6時20分山田発美良布ゆきの満員バスを運転中、操縦を誤り、大楠上村楠目の個人宅コンクリート塀に車体を突きあて塀を破壊、さらに運転をつづけ、片地村杉田では芋畑に乗り込むなどヨイドレ運転を続けた。このため乗客は同所で全員下車、一部は後続のバスに乗り転落事故に遭難した者もあった。

 

事故防止策の展開

これらを受け、国鉄側は当時としては異例のスピードで、事故防止策を展開しています。

  •  昭和25年(1950)11月27日 ルールの改正、徹底(佐川営業所)

毎日操縦専任者を1名置き、車の点検、乗客整理、臨時便の手配、乗務員の服装点検のほか、乗務前運転手の精神状態をテストする。

乗客はドアを閉める程度に収容して絶対に入口にかきつかせない。

運転手、車掌ともあごヒモをかける。

  •  昭和26年(1951)12月6日 車両の変更

大栃線惨事一因は満員乗車にあると、動線の定員制を実現するためジーゼルエンジンの大型新車(定員50名)2台を配置することになり、6日午後1時40分山田発美良布行に初運行した。

バス事故慰霊碑4

供養の歴史

年忌法要はもちろんのこと、関係者が供養塔などを設置してきました。

 

  • 昭和25年(1950)11月25日 供養塔設置

山田自動車営業所員70余名の浄財になる六寸(約20cm)角、一丈二尺(約3.6m)の供養塔二基が転落現場の土深く建てられた。

  • 昭和27年(1952)11月4日 句碑設置

第三回忌法要において句碑の除幕式を行った。

この句碑は香北俳句同人たちの間で進められ、美良布、在所、暁霞三町村消防団百余名も連日奉仕。

句碑は高さ6尺(約180cm)、幅三尺(約90cm)、厚さ5寸(約15cm)。

当時の林譲治(俳名:林鰌児)副総理(後の衆院議長)が投句した「思い出はまた涙なり野辺の菊」の

他、34柱にちなみ、追悼34句が刻まれている。

  •  昭和35年(1960)11月 宝珠寺住職が弔魂碑建立

真言宗宝珠寺(香北町吉野)住職は、一人娘がバスに乗り合わせ、全身打撲の重傷を負った関係者の一人。

毎年命日には死亡者の遺族を招き、遭難者の冥福を祈り供養するとともに、四国88ヶ所巡り、高野山本山詣でなどを行うなかで、10周年に弔魂碑建立を決意。

奔走の結果、犠牲者遺族や善意の方の寄付をもって弔魂碑と交通守護地蔵尊を建立。

塔身4.3m、台座0.8mで塔身には死亡者の名前を刻み、傍らには交通守護地蔵尊(青銅製3.1mの像に台座1m)を設置。

石材はいずれも高級ミカゲ石である庵治石で、彫刻を請け負った香川県高松市の業者は、くしくもこの事故バスに乗ろうとして満員のため次便におくらせて難を免れた人。石材は同氏の好意で、最良品が使用されているそうです。

 

現在の国道沿いには、左からこれらの句碑、弔魂碑、交通守護地蔵尊が並んでいるのです。

日ごろ何気なく前を通過する方も多いとは思います。飲酒運転は言語道断ですが、スピード超過、車間距離確保など、この石碑を見かけたら安全運転に気を配っていただければ幸いです。

物部川バス転落事故から68年。
法要は今年も供養塔の前で、11月7日午前10時頃より宝珠寺により執り行われます。

物部川−事故現場

参考資料:香北町史、高知新聞他新聞各紙

取材協力:ジェイアール四国バス株式会社

 

 

NPOいなかみ

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