受験シーズン到来。

合格祈願は菅原道真公を祭る天満宮に行かれる方が多いと思いますが、高知県香美市には受験生がたくさん訪れる「谷秦山(たにじんざん)墓所」という場所があります。

谷秦山は学聖(がくせい:学問の道で偉大な業績をあげた人)とか、土佐南学中興の祖などと呼ばれます。

また、土佐の天文学の元祖でもあり、漢方薬の研究にも精通していました。

さて、どんな人物だったでしょうか。

谷秦山墓所入口

本名:谷重遠(しげとう)。
通称が丹三郎で、「秦山」は号名(文人などの別称)です。

生まれは江戸時代初期の寛文3年(1663)3月11日、長岡郡岡豊八幡村(元南国市)の神官職の三男として生まれています。

谷家は栄えた時代もあったようですが、生まれた頃は貧困のどん底。
また、生来の病(眼病・耳疾・肺結核)との闘い、相次ぐ家族の不幸(自分の子供が何人も次々と死亡)、学者への迫害の中での研究生活など、経済的にも精神的にも生涯を通して苦労された方でした。

寛文6年(1666)、4才の時に高知城下に移り、幼年時代を過ごしています。

この頃から頭がよく、言動にすばらしいひらめきがある子であるなど、神童と言われる逸話が数多く残されています。

例えば8才の頃、小学(中国の書で、古典や古人の言行を引用した学生向け儒教倫理の入門書)や四書(朱子学教育の基本的なテキスト)を数ヶ月で習い終えたとか、その後、法華経を2ヶ月でスラスラと詠めるようになったとか言われています。

17歳の時に上京。
京都で日本屈指の儒学者である山崎闇斎の門下に入り、高弟の浅見絅斎に師事。朱子学・神道学・暦学を学びました。

延宝8年(1680)のこと、世紀の大彗星とされるキルヒ彗星が出現。
京都で師弟たちと彗星を眺めつつ、天の道、人の道を語り合ったそうです。

星空

天和3年(1683)7月 秦山21才
一家で高知市北部の秦泉寺村へ移住し、秦山と号しました。
秦山の号は秦泉寺村(じんぜんじむら)秦山(はたやま)から来ています。

32歳の頃、秦山は自己の神道理念達成のためには天文暦学の研究が不可欠である、として師闇斎の奨めもあって渋川春海の門を叩きました。

この渋川春海は、天文学と暦学の最先端の研究、技術開発に取り組んだ人物で、近世日本の天文暦学の開祖であり、日本の科学史上最も重要な人物の一人とされています。

当時の暦は朝鮮・中国のものをそのまま使っていましたが、彼は中国と日本の経度差をとり入れ、日本人による日本で初めての暦である「貞亨暦」を作った人物としても有名です。

渋川春海に師事し天文・暦学を学ぶ秦山は、渾天儀(こんてんぎ)と呼ばれる惑星の位置等を正確に把握するための機材を購入するなど、多くの情熱を天文学に注ぎました。

その中で、秦山は高知城の位置が北緯33度強と推測。
これは、伊能忠敬が日本地図を完成させるよりも114年前で、当時緯度を正確に測定したのはイギリス人と秦山が同時期であったのではないかと思われます。

谷秦山旧宅跡1

元禄10年(1697)4月 秦山35才
弓術家土橋六兵衛の次女と結婚。

元禄13年(1700)4月 秦山38才
分家して現香美市土佐山田町秦山町三丁目へ移住し自邸を構えています。

40歳の頃には土佐藩5代目藩主山内豊房に召されて藩士たちに講義するなど、この頃は土佐藩の儒官として一定の地位を確立していました。

ところが、宝永4年(1707)、45歳の時、豊房死後の政変が勃発。
6代土佐藩主の跡継問題で無実の罪を受け、土佐山田の地に蟄居(ちっきょ)となりました。

その蟄居は、死の直前まで10年以上に及んでいますが、秦山は天も人も恨まず、己の運命を嘆くこともなく、幽囚の身をむしろ好機として昼は読書し成果を書にまとめ、夜は天体観測に勤しむ日々を淡々と過ごしたと伝えられています。

資料には、こんな記述もありました。

「晴れた夜は庭内を歩き、天空の星や月を観てはホタルを採り、酒や果物は時にたしなみ、詞は口からでるに任せる。夜半就寝し、枕元には歌集が散らばり、心に一点の汚れもない気分になるというまさに自然にそった生活ができる場所に居られることは、安心して死ねるという安らぎを持ち得た。」

土佐山田の地は、よほど住みやすかったと思われます。

この間に朱子学に神道をあわせた学問を展開し、一時絶えていた土佐南学派を再興。

その国体論は、死後も子孫と門人に受け継がれて土佐藩教学の中心となり、多くの人材を輩出。
幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与え、明治維新の原動力となりました。

谷秦山墓所5

享保3年6月30日(1718年7月27日)没 享年56才。

墓を立派にすることを厳しく禁じた谷家の家訓にならい、自然の川原石に「谷丹三郎重遠墓」とだけ刻まれた小さく質素な墓ですが、国の史跡に指定されています。

学問が大好きでその精神と思想が明治維新の原動力となり、現代においても学徳を慕い、敬愛されて「学聖」と呼ばれる高知県香美市の誇る偉人「谷秦山」。

学び探究するということの重要さと、志を持つことの気高さを教えてくれる秦山の姿には、香美市の教育の原点があるのかもしれません。

また、谷秦山の門下生の中に、土佐藩執政の野中兼山の娘「婉」がいました。
彼女は幽閉された環境の中で秦山に学び、貧しい人のために薬をつくり医療を行い、大原富枝の小説「婉という女」でも有名です。

さらに、香美市にある老舗の酒蔵「アリサワ」の銘柄「文佳人(ぶんかじん)」の由来にもなっています。

毎年2月の第3日曜日には墓前祭が行われます。

郷土の偉人として、多くの方々に関心を持っていただければと思います。

谷秦山墓所3

天文講演会・観望会in土佐山田『土佐の天文と谷秦山』

土佐の天文の元祖ともいえる谷秦山。
生涯に執筆した数多くの著作の中に、日本に接近した彗星についての記述もあります。

谷秦山のことや天文のことを楽しく教えてもらえるイベントがあります。

日時

2020年1月12日(日曜日) 講演会14:00~17:00/観望会18:00~19:00

場所

講演会/香美市立中央公民館 観望会/香美市立山田小学校

講師

日本宇宙少年団 高知分団長 吉岡健一さん

元国立天文台石垣島天文台所長 宮地竹史さん

世界的な天文家 関勉さん

申し込み・問い合わせ先

高知天文ネットワーク・高知みらい科学館 ℡088-824-8222

谷秦山墓所2

<参考資料>

学聖・谷秦山−その生涯と秦山学大成への道 編纂:香美史談会谷秦山編纂委員会

香美市観光協会ホームページ 谷秦山

NPOいなかみ

One thought on “土佐山田町に眠る探究の祖「谷秦山」

  1. ほとんど大阪の地に住む者として、高知の地で儒学、天文などに成果を挙げられた人がいたことを知り、日本人として嬉しい気持ちになります。さらにやはり日本人だからこそ成果を挙げ後進も指導されて受け継ぎながら発展を図る姿勢は称賛に値します。

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